現実と幻想が濃厚に織り交ぜられた物語に、真実を見る
『木になった亜沙』 今村夏子 文藝春秋 1,200円
どんぐりも、ドッジボールも、なぜか七未だけには当たらない……(「的になった七未」)、誰かに食べさせたいという願いがかない、杉の木に転生した亜沙は、わりばしになって若者と出会った……(「木になった亜沙」)、夜の商店街で出会った男が連れていったのは、お母さんの家だった……(「ある夜の思い出」)。昨年芥川賞を受賞した著者の、デビュー10周年を記念する、悲しくも幻想的な3つの愛の物語。
現実に向き合えば向き合うほど、問題の本筋から離れてしまうことはないだろうか。3つの短編からなる、この非現実的な物語の中にいると、妙に本質が見えてくる気がするのだ。表題作の「木になった亜沙」の主人公は、幼いころからなぜか誰も、自分の手から渡したものを食べてくれない。そんな悲しさから不良の道に走るが突然死に、杉の木に転生する。3話目の『ある夜の思い出』では、幼いころからゴロゴロしているのが好きで、歩くのも億劫になって這って暮らしていた女性が、同じ様にワニのように這う男性と出会い、忘れられない夜を過ごすが、その後普通に結婚し、あの夜のことを時折思い返す……。
荒唐無稽にも思える設定だが、そこに違和感を感じないのは、登場人物がその現実を受け入れているからだろうか。今の私たちは、現実とか常識がそれまでと180度変わってしまうような体験をしている最中だから、かもしれない。非現実的な、そして途方にくれるほど悲しい物語を前に、愛とは、生きる意味とは、一番大切なものはなんなのか、という命題を、直球で突きつけられるのである。
上司とのコミュニケーションが希薄な今は、本書を師に!
『ぜんぶ、すてれば』 中野 善壽 ディスカヴァー・トゥエンティワン 1,500円
伊勢丹、鈴屋、台湾企業で異例の実績を残し、2011年、寺田倉庫の代表に就くと2013年より会社の拠点となる天王洲アイルエリアを、アートの力で独特の雰囲気や文化を感じる街に変身させるなど、経営改革を担った75歳の伝説の経営者が語る「自立した生き方」の提案。家も車もスマホも持たず、肩書きにも過去にもこだわらず、さっそうと生きる著者の言葉に、「名言集」のように見開き完結で触れられる一冊。
一方の本書『ぜんぶ、すてれば』は、ビジネス書、啓蒙書のジャンルだ。新型コロナウイルス騒動で、もっとお金持ちになりたいとか、信頼されるリーダーになりたいといった悩みや欲を解消するようなハウツー本が、上滑りな言葉に聞こえていたこのごろ。一方で、いいかげん緊張感を取り戻し、コロナを言いわけにせずに仕事に取り組まなくてはと思っていた矢先に現れたのが本書なのだ。寺田倉庫が率いる天王洲アイル刷新プロジェクトなどの火つけ役となったのがこんなご高齢のかただったなんて、と正直驚いたが、本書を手にとればご高齢なんて思った自分が恥ずかしくなるほど、エネルギッシュでスピーディでダイナミック。年齢とともに知識や経験、スキルばかりを重視しがちになっていた私たちに、シンプルな心意気や潔さの価値に気づかせてくれる、目の覚めるような一冊だ。
リモートワーク中心で、オンライン会議やメッセージツールでは仕事相手や上司・同僚とも雑談も減ったこのごろ、「直近のタスク」以外の大事な話をしてくれる貴重な先輩と出会った気分になれる。
吉野ユリ子