幸せの定義
たとえばある日突然、会社につけていくと、いろんな意味で大反響を巻き起こすことになるが、中には「あらま、これ見よがしに」と思う人がいないとも限らない。すでに婚約をアナウンスしていたらしていたで、「仕事するのに邪魔じゃない?」なんて心配してくれる人がいないとも限らない。
もちろん、幸せを持ち歩いていけないはずがない。婚約期間は生涯で一番幸せな時。その物的証拠のエンゲージリングは肌身離さずつけていたいと思って当然。ましてや巨大な幸せは理屈抜きに大声で披露して回りたくなる。だから何を言われようが、構わないのだ。本来は。
でも、幸せの定義は、不幸せとの比較によって成立する。つまり幸せは周囲にあるものを、やむを得ず不幸に見せる。言いかえれば、「去年より今年の方が幸せ」というふうに、去年を半ば否定することでしか、今年の幸せは実感できないわけで、比較材料がなければ、幸せも不幸せも生まれないのだ。
そういう法則を知っている人と、人の気持ちを何より気遣う人は、“自分だけが幸せな状況”を自ら作ってしまうのはマズイかもと思えるのだろうし、その立場に1人酔っているように見えたくないというブレーキも利かせられるはず。
幸せの種類もいろいろだが、非の打ち所がないのは、やはり婚約にまつわる幸せ。だから今年に入っていくつかの婚約(結婚)発表があったが、そこで改めて思い知るのは、幸せの表し方ってやっぱり難しいということ。こういう場面にこそ、女がそっくり炙(あぶ)り出されるということも。冷静すぎるのも妙だが、テンションが高すぎるのもなんか微妙。ここでハシャギすぎると、相手の幸せを吸い取る空気を作りがち。百点満点の幸せを世間に披露する時こそ、幸せは比較なのだという事実を思い出し、大人の女はそれなりの配慮をすべきなのかもしれない。ほんの少しの配慮で、幸せのシャワーをすべての人に広げてあげることができるのだから。