須藤慶子を責めるわけでもなく、でも私の背中にそっと手をあててくれるような真木のフォローは暖かく私を包み、暴発しまくる地雷に圧倒され、別にこの人に理解してもらえなくたって仕事上の利害関係があるわけでもない。好きに言えばいい、さっさと帰れと、早々に心のシャッターを閉じてうずくまりそうになっていた私の手をとり、ちゃんと立って向き合いなさいと言ってくれるようだった。
仕事を辞めないために、続けるために、手放さないためにあきらめないためにかかる費用も馬鹿にはならない。時短勤務といったって、母に寄生して生活するっていったって、復帰した以上どうしても延長して対応せざるを得ない場面は少なくない。だからどうしても、融通がきいてかつ質のいい預け先、保育園を探したら、なんと月9万。年間ざっと100万。安くはない金額が必要になる。と、うちにはもう一人上の子がいるわけで。学童だけじゃなく、他のお友達をみれば同じようにいろいろな習い事をやりたがる年頃だ。それでも子供を育てながら本気で第一線に復帰しようとしたら当然必要な経費だと私は思ってる。だから誰にも何ももちろん言わない。自分がやりたいことをやるために必要なお金は、自分で稼いで自分で払う。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけのことだ。
地雷女史が思ってる程、お気楽極楽なセレブライフを「のほほんと」送れているわけではない。たまたま私の発した言葉の断面ひとつを勝手に聞いて、知ったようなことを軽々しく言わないでもらいたい。あきらめない、あきらめたくない女が果たさなくてはいけない必要な踏ん張りや努力ってものが、あなたなんかに見えないところでいろいろいろあるのだから。
そんな思いを言葉にしてみようとしたがその前に、ここのところ懸命に自分のおなかの奥深いところに押し込めようと努めていた「やってられないわ」感情と一緒になって期せずして涙と鼻水となってこみあげてきた。
「まーたー! だからなんなんだよお前たちは。今度は誰が泣いてるんだよ。40過ぎた女が喧嘩しないで飲めないのかよ。真木、今度はなんなんだ? 説明しろ」
「猛獣たちがじゃれあってるだけー」
真木に新しいワインボトルを手渡すと、マスターは私の顔を見て困った顔をして笑った。
「真木に続いて結花まで泣かせたのか、理沙!」
「ちょっと! あたしじゃないって。結花はこの人が泣かせたの、こちらの奥様が」
こみあげる涙を意に反してなかなか止められない私の周りを、理沙と須藤女史の険悪な雰囲気がさらに濃厚に取り囲み、理沙の噛みつきから、彼女らの第二ラウンドがはじまる。
「大体自分は自分の庭からは一歩も出ないくせに、隣の庭勝手にのぞきこんでそこに咲くいろんな花見てうらやましくてつば吐きかけてくるのってダサ過ぎでしょ、不毛でしょ、ただのクレーマーでしょ」
「谷原さん、それ私のこと言ってるの?」
「他にいないでしょ。40も過ぎればわからない?ふらっと隣の芝生をみればそこは目が眩むほど青く輝いてみえて、油断すると思わず『うらやましいお化け』がとめどなく口を突いて、それは時として毒となってトゲとなってあふれ出てくることくらい、あたしたちはよくよく知ってるの。そしてそれがどれくらい意味がないことかもとっくに知ってる。もし仮にあんたが、同じ既婚者なのに結花のように経済力がある女がうらやましいと本気で思うなら、あんたの庭から出てみなさいよ。つまり扶養の枠の中から外に出てくればいいだけでしょ? そりゃすぐに希望すべてを満たすような高収入の仕事が見つかるかどうかはわからないけど、でも仕事はあるし始められる。逆にね、あたしや真木が今から誰かの扶養の枠内にいれてもらいたいわーって仮に思っても、相手みつけるとこから始めるわけだし、その大変さと比べたら、須藤さん側がこっち側つまり目一杯働く女側に来るのなんて破格に楽勝なわけよ。自分の意志ひとつで、いくらでも庭の花増やせるのに、何一つせずにわーわーぴーぴーうるさいから、黙れアラフォークレーマーって思っただけ」
息継ぎなしで言いきるやぐいーーーーーーーっと水のようにシャンパンを飲み干す理沙の「納得いかないときは徹底的に戦いますスタイル」は昔から変わらない。この人はいつも捨て身。必ず勝てる試合だけじゃなく、明らかな負け戦であっても理沙は逃げないし相手も逃がさない。関わると面倒なだけじゃないかと思うような相手でも、この人は向かっていく。
でも理沙は今、理沙の腹いせのためじゃなく、おそらく私のために、私の代わりに地雷女に向き合ってくれている。私の納得のためだ。私が理不尽に噛みつかれたまま、投げやりになって言われっぱなしになることをよしとせず、結花も自分の腹落ちのために、言うべきことをちゃんと言えと暗に私に言ってくれているのだ。
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