母からこの一言を聞いた次の日、今年73歳になる母の太ももには大きな赤い発疹がいくつも出現し、激痛が走ったという。足を床につけるのも痛い。歩けなくなった。
母と長年連れ添う父は「優しい言葉がかけられない King of 昭和」なので、「ガンだ、俺は何人もそういう人を知っている」などと母本人の前で騒ぎ立てた。姉と私はこのめんどくせー父親を𠮟りつけた。父はそれにまたふてくされた。この人は不安が大きければ大きいほど狂暴になる子どものような人だ。
とりあえず母がいつもお世話になっているお医者さんに見てもらい、念のためと子宮のCTスキャンも行った結果、子宮に異常はなく、足の痛みは年齢による免疫力の衰えからくる帯状疱疹ということで落ち着いた。完治まで一か月の人もいれば、一年以上かかる人もいる。神経痛が後遺症となって残ることもあるという。それでも原因がわかった以上対策が取れるということは、母にとっても家族にとっても安心の一片にはなった。
実家の近くに居を構える姉は、日ごろから「生存確認」と称してよく両親のもとに顔を出してくれているが、私は少し離れた(電車で3~40分)ところに住んでおり、仕事もありなかなか実家に行こうとしていなかった。しかし今回のことをきっかけに暮らしを変える必要があることを痛感した。いつでも駆け付けられるように車を買うことを検討し、ゆくゆくは実家の近くに家を、将来的にどちらかと一緒に住むための部屋は?間取りは?などと一連のことが頭を駆け巡った。自分の周囲の人間が健康であるということがどれだけ尊いことか、わかったつもりでいただけだと思い知らされた。
両親の介護が身近に迫ってきた一方で感じたのが、自分の老後である。こんなことがあった。
母は台所にも立てないため、父がご飯の支度をしてくれるのだが、レパートリーにはやはり限界がある。加えて父はケ……節約家なので、ちょっと豪華なお弁当とか、出前も取りたがらない。母は家事を遂行してくれる父に感謝はしつつも、「たまには焼き肉が食べたいわ」と吐露した。私と夫はすぐさま、母の好きな焼き肉店を予約した。デパートの中にあるその焼き肉店まで父の運転で向かい、デパートで車いすを借りることになった。母はもしかしたら車いすに拒絶反応を示すかもしれない、と心配したが、母は「焼き肉には代えられない」「足を引きずって歩く姿をさらすほうが辛い」と言って、比較的すんなりと受け入れた。(娘の私に気を使ったのだろうとも、思う)
無事に車いすを借り、母を乗せ、私が押す。ハンドルを握ったとき、気づいた。「私には車いすを押してくれる子どもがいないんだな」と。
子どもを持つ人が自分の介護のために育てているわけではない、というのは承知しているし、うちの母だって無論そうである。しかし思った。家族・親戚の中でも末っ子で、夫は干支一回り分年上である自分。最後の最後、ひとりなのである。自分で選択した道ではあるが、今までどこか現実とリンクしていなかったような気がした。歩けなくなったら、家から出られなくなるかもしれない。そのことすら、気が付く人はいない。その時誰かに助けを求めるほどの気概はあるか。コミュニティはあるか。ショップにすら緊張して一人で入れないほどの自意識過剰な私が、この先誰かに頼れる可能性は悲しいほど少ない。
目の前にいる、だいぶ小さくなった母を車いすに乗せて焼き肉店に向かう道中、私はこのように自分のことばかり考えていた。母は生まれて初めて乗る車いすの上で、いつもより低くなった目線の世界で、何を考えていたんだろう。娘たちのことでないことを祈った。父と同じくらい無神経に、イライラと図々しく、自分のためだけのわがままをぶちまけて欲しいと、心底願った。
幸い、一進一退ではあるが、母の足は快方に向かっている気配のようだ。まだまだ元通りというわけにはいかないが、母がまた大好きなデパートで買い物ができるように、今は支えるのみだ。そして、同時にこの先の自分も支えていかなくてはならない。まだこのことについて、具体的な策や絶対安心の答えは出ていない。それでも、まだかろうじて時間はある。この先の未来がたとえ暗くても、そこに一灯でも二灯でも明かりをともすことを目指して生きていくしかない。
とりあえず金だな……とお金のことを考え出す非常に遅い、アラフォー資産運用の目覚めでもあった……。
母は家にいる時間、「とりあえず韓国ドラマを消化する」とのこと。Netflixのある時代に生まれて良かったよNE!