“気の弱い女”は、いない
負けん気の強さ、押し出しの強さ、物言いの強さ、女の強さもいろいろだが、逆に言えば心が脆かったり、引っ込み思案だったりする女はいても、気の弱い女はいない。「気が小ちゃな男」という言い方はしても、「気が小ちゃな女」という言い方はしないように、女は本来みな気が強い。腕力がない代わりに気の強さを与えられたのが、女という生き物なのだ。
ゆえに女は年齢を重ねるにつれ、その強さが形になって現れ出る。若さや気取りで包んでいたものが剝がれ、良くも悪くも場慣れして、怖いものがなくなるから。しかし、そこが女の分かれ道。怖いものなしになった時、勇敢な女になるか、太々しい女になるか、はっきり2つに分かれていくのである。
思い切りよく分類するならば、勇敢さとは、危険や困難を恐れずに物事を実行する強い心や、信念を貫き通せる忍耐力、人を守ろうとする優しさまで、人間としての「徳」を積むことに他ならないが、太々しさは、開き直るから図々しくなり、怖いものがないから自分自身が怖い存在になっていく。つまり他者に対してのスタンスは、真逆。包容力で人を守るか、威圧感で人を支配するか、どちらも大人になるということだが、後者の方に向かっていくのは何が何でも避けたいわけだ。
ふと、岐路に立つメーガン元妃を思い出した。とてつもなく強い女性である。まさに何事も何者も恐れない人。ある意味勇敢でもあるが、太々しくもあるこの人は一体どちらなのかと。今38歳。まさしく1つの岐路にあると思うからだ。