そして私はいつも「そうじゃない側の女」だ。
結婚していない女。選ばれない女。子供を産んでいない女。育てていない女、もらえない女……などなど、好む好まざるにかかわらず「じゃない側」からはそう簡単に抜け出せない。
例えばお子を産むということは、新たな命を宿しこの世に産みおとすのだから、たしかに尊く意義深いことだと思う。
でもだからといって。
どうしてそう「である側の女」は、そう「じゃない側」の女を憐れんだり、勝手に残念に思ったりするんだろう。自分の属する群にいない女のことは、ほっておいてくれればいいのに。
なぜ比べたがるのだろう。あたかも「じゃない側」が不正解かのように間違っているかのように追及し、「じゃない側」にごめんなさいお恥ずかしいと認めさせようとするのだろう。
「なんで結婚しないの?」
「子供欲しくないの? 絶対作った方がいいと思うよ。子供がいる方が楽しいって」
「老いて女が一人って、寂しいでしょう?」
そんな要らぬ構いだてに、「じゃない側」の女は疲労を静かに蓄積させ、少しずつ心がささくれだつ。
ささくれって地味に痛い。それでも。
「じゃない側」の女が逆サイドに反論したり反撃することは、ほぼない。それは優しいからとか道徳的に素晴らしいからなどではない。いいか悪いかそんな暇がないからだ。
人生は、選択の嵐。
自分が何をどう選びどう決めたか、決めるか。その積み重ねが人生で、その責任は自分にしか負えない。
「じゃない側」の女は、いつもそれを肝に銘じ続けている。逆サイドの人の肝ではなく、「じゃない側の女」である自分の肝に。