彼女の退職届は、段取りよく、早々に提出されていたため、速やかに受理され必要な手続きはすべて完了していた。本部からの説明もすべて休み前に終えており、この期に及んで特にサインをもらうようなことも、こちらから説明の必要があることも、何一つ残っていなかった。
が。
彼女の「大事な話」とは、またまた予想外のものだった。
それはつまり、一切の届け、退職届を取り消して、元のポジションに元の待遇、元の給与体系で戻り、今までどおりの仕事を継続させてもらいたいとの申し出だった。2人目が出来ると思ったから退職しようと決めたのであって、そうならなかったのだからやっぱり退職宣言は、撤回する。とのこと。
その説明は、確かに間違っていない気はする。
が、一方で会社組織として正式な手続きを完全に通し完了した後に、やっぱりあれはなかったことに……とするのは、そんなカンタンなことでもない。なんてこと、彼女には興味がないらしく、「でもこれ、ごく当たり前の主張ですよね?」と笑った。
「ごく当たり前」かどうかはちょっとわからなかったが、直属の上司として、働く意志のある女性社員の希望は尊重し、引き続き長く働いてもらえることは本人にとっても会社にとっても望ましいこと……と考え、その日以来、今度はすでに完了してしまった手続きの調整をあれこれ、海外の本社と深夜までやりとりしては、必要な交渉と申請をし続けることおよそ1週間。
会社組織において、ルールにない、イレギュラーな手続きを通す際の意味不明な小難しさは、経験した人なら想像がつくだろう。誰が悪いわけでもないし、彼女が悪いわけでもないが、あたしが悪いわけでもないだろう、と思いながらもストレスと過労は恐ろしく蓄積する。
そして、あれやこれやの調整の結果、ご本人の希望どおり、全面的に完了し終えていた手続きの撤回と、元のポジション&元の待遇での継続勤務が認められたことを報告したその日、彼女はあたしに開口一番、こう言った。
「よかったですね。だって時代は、女性活躍推進、ですもんね」と。
あれ? ……なんだろう。あれ?
いや、最初の一言は「よかったですね」じゃなくない?
ほんとのところ感謝なんてしてようがしてまいが、大人としてはとりあえず“申し訳程度”にでも「ありがとうございます」があってもよくないです?
なんて思うあたしも器が小さいが、いや、やっぱり人としてあってもいいよね?と思わずにはいられなかった。
そして、めでたく元通りの待遇での勤務継続が認められた彼女は、笑顔でこう続けたのだ。
「あ、そういえばそろそろ昇格審査の時期ですよね? 今回は私を昇格候補に推薦してもらえますか? 社歴的にも順番的にも、私でおかしくないですよね? 一つあがると、お給料だいぶあがりますもんね。いろいろあって、私決めたんです、しばらくは、家を買うとか、また次に子供をつくるために、我が家の経済基盤をがっちり固めることに邁進しておこうって」
……。
酸欠でややめまいを起こしそうになりながら、絞り出すようにあたしが言えた言葉は、「うーん、あたしの一存ではまだなんとも。まずは今、それぞれにやることやるところから始めよう」だった。
ギリギリの微笑みでなんとか彼女の猛攻をかわして会議室を出た瞬間、あたしの中でぶちぶちぶちっと勢いよく何本かまとめて血管がぶち切れる音がした。
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